心理学者 / psychoanalysis

ジャック・ラカン
フランス 1901-04-13 ~ 1981-09-09
フランスの精神科医・精神分析家(1901-1981)。「フロイトへ帰れ」を掲げ、ソシュール言語学と構造主義の道具で精神分析を読み替えた人物である。鏡像段階論、想像界・象徴界・現実界の三領域、無意識は言語のように構造化されているという命題で20世紀人文学を揺さぶった。一方、可変時間セッションは1963年のIPA除名を招き、難解な数学的記号の濫用も「知的詐術」批判の的になった。
この人から学べること
ラカンの「人間の欲望は他者の欲望である」は、SNS時代の自分の欲望を点検する強力な補助線である。買いたい服も、進みたいキャリアも、本当に自分の欲望か、それとも「あの人がそれを欲しがる視線」を欲しているのか。「無意識は言語のように構造化されている」は、自分の口癖や繰り返す失敗のパターンを言語で分析する習慣を促す。一方、可変時間セッションへの批判は、難解な権威の言説を鵜呑みにせず、効果を実証で測る態度の重要さも示している。
心に響く言葉
無意識は一つの言語のように構造化されている。
L'inconscient est structuré comme un langage.
人間の欲望は、〈他者〉の欲望である。
Le désir de l'homme, c'est le désir de l'Autre.
愛するとは、自分が持っていないものを与えることである。
Aimer, c'est donner ce qu'on n'a pas.
〈女〉は存在しない。
La femme n'existe pas.
私は、私がいないところで考える。ゆえに、私は私が考えないところに存在する。
Je pense où je ne suis pas, donc je suis où je ne pense pas.
生涯と功績
ジャック=マリー=エミール・ラカンは1901年4月13日、パリのカトリック・ブルジョワ家庭に生まれた。聖スタニスラス校でアリストテレスとスピノザに親しみ、当初は哲学を独学した彼は、やがてパリ大学医学部へ進み、25歳のときアンリ・クロード教授のもとで精神神経学を学んだ。1928年にはパリ警察庁に入庁し、精神鑑定医ガエタン・ドゥ・クレランボーのもとで犯罪心理学に触れた。クレランボーは後に鏡の前で拳銃自殺を遂げ、その衝撃が彼を精神分析へと深く引き寄せていく。1932年、女性パラノイア患者「エメ」を扱った博士論文『人格との関係から見たパラノイア性精神病』を発表し博士号を取得した。
1930年代の彼は、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義、シュルレアリスム、そしてジョルジュ・バタイユとの交友を通じて、医学を超える知の場に身を置いた。バタイユの妻シルヴィアと愛人関係になり、1938年には娘ジュディットが生まれている。1936年に発表されたのが最初の理論的業績「鏡像段階」だった。生後6か月から18か月の幼児が鏡に映る像を自己と同定する経験が、自我の原型を作る。自我はこの想像的同一化に始まり、その意味で常に他者の像から疎外されているという視点は、後の象徴界・想像界・現実界という三つの領域の枠組みへと発展していく。
戦後ラカンの活動は精神分析運動の内側で激しい対立を生んだ。1953年にパリ精神分析学会会長に選ばれるも、5か月後に不信任で辞任、ダニエル・ラガーシュらとフランス精神分析学会を新設した。同年9月のローマ会議で発表された「精神分析における話と言語活動の機能と領野」は『エクリ』所収の中心論文となる。1963年、可変時間セッション(時に数分で打ち切る短時間セッション)の訓練分析を理由に国際精神分析協会(IPA)から除名され、彼自身は自らの境遇をスピノザの破門になぞらえた。1964年に「パリ・フロイト派」を結成し、エコール・ノルマル(高等師範学校)で20年以上続けた「セミネール」は、フランス思想史に独自の場所を刻むことになる。
ラカンが提示した命題は知の地図を書き換えた。フロイトのエスがあった場所に自我が生じる、を彼は「我、思わぬ故に我あり」と読み替え、無意識は言語のように構造化されている、人間の欲望は他者の欲望である、女は存在しない、と挑発的な定式を重ねた。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)を上下に逆転させ、シニフィアンの優位という発想で意味の生成過程を再記述した。父の名、対象a、大文字の他者といった概念は、文学批評・映画理論・フェミニズム理論・カルチュラル・スタディーズに浸透し、ジジェクやクリステヴァ、アルチュセールに大きな影響を与えた。生前唯一の単著『エクリ』(1966年)はその難解さにも関わらず仏国内で20万部を超えるベストセラーとなった。
しかし批判もまた強かった。可変時間セッションは患者ケアの観点から疑問視され続け、アンナ・フロイトに対する「アナフロイディズム」批判には派閥政治の色も濃かった。1996年にアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『知的詐術』で告発したように、彼の数学的記号や位相幾何学の援用には根拠の薄い箇所が多く含まれていた。1980年に自ら「パリ・フロイト派」を解散したラカンは、最後に「フロイトの大義派」を立ち上げ、1981年9月9日、大腸癌手術後の腹膜炎と敗血症によりパリ近郊で世を去った。最後の言葉は「私は強情だが…消えるよ」と伝えられる。死後、草稿の管理は娘婿ジャック=アラン・ミレールが引き継ぎ、未公刊だったセミネールは順次刊行が続いている。
専門家としての評価
ラカンはフロイトの直接の後継者ではないが、戦後フランスで「フロイトへ帰れ」を旗印に精神分析を構造主義的に再読解した最重要人物である。フロイト・ユング・アドラーに次ぐ世代の精神分析家として、その射程は臨床に留まらず哲学・文学批評・映画理論・フェミニズムにまで及ぶ。一方、可変時間セッションをめぐる1963年IPA除名、難解な数学的記号の援用、後継ミレールによる派閥支配については批判が続く。臨床的に主流化はしなかったが、人文学への影響度ではフロイト以後最大の精神分析家である。