経済学者 / 日本美術
高橋是清
日本 1854-07-27 ~ 1936-02-26
1854年江戸生まれ、幕府御用絵師の庶子として生を受け、仙台藩の足軽に養子に出された。渡米して奴隷同然の苦難を経験した後に帰国。特許局初代局長として特許制度を創設し、日露戦争では外債募集に成功して戦費を調達した。「日本のケインズ」と呼ばれ、大恐慌からの脱出を世界に先駆けて実現したが、軍事費削減を断行したため二・二六事件で暗殺された。
この人から学べること
高橋是清の「高橋財政」は、ケインズが『一般理論』を出版する前に実践された世界初の大規模な反デフレ政策として、現代のマクロ経済政策にとって先駆的な事例である。金本位制離脱・低金利政策・財政拡張の三位一体は、2008年のリーマンショック後や2020年のコロナ危機における各国の政策対応とほぼ同じ構造を持つ。投資家にとっては、金融緩和と財政拡張がいかに速やかに景気回復をもたらすか、そして出口戦略に失敗した場合にインフレと暴走をいかに招くかという両面を歴史的に学べる最良の教材である。高橋暗殺後の日本で軍事費が抑制不能となりインフレが加速した事実は、財政規律の番人がいなくなった時に何が起きるかという警告として現代にも直接的に関わる教訓を示しており、中央銀行の独立性がなぜ制度的に保障されなければならないのかを考える根源的な事例でもある。
心に響く言葉
生涯と功績
高橋是清は、幕末の江戸に生まれ、渡米経験での奴隷同然の苦難を経て、日本銀行総裁・内閣総理大臣・大蔵大臣を歴任した、近代日本を代表する財政家である。日露戦争時の外債募集の成功、世界大恐慌からの早期離脱を実現した積極財政政策、そして軍部への歳出削減を貫いた末の暗殺という劇的な生涯は、経済政策と政治権力の相克を象徴している。
1854年、江戸の幕府御用絵師・川村庄右衛門の庶子として芝中門前町に生まれた。生後すぐに仙台藩江戸詰めの足軽・高橋覚治の養子に出された。横浜のヘボン塾(後の明治学院大学の前身)で英語を学んだ後、1867年に勝海舟の息子・小鹿とともに渡米。しかし渡航を手配したアメリカ人貿易商に学費を着服され、ホームステイ先のブラウン家で年季奉公の契約書にサインさせられて事実上の奴隷として売られた。オークランドで牧童や葡萄園労働者として酷使されたが、本人はそれを厳しい留学だと思い込んでいたという。この苦難の中で英語の会話と読み書きを身につけた。1868年に帰国。
帰国後は森有礼の推薦で文部省に入り、英語教師として活動。廃校寸前であった共立学校(現在の開成中学校・高等学校)の初代校長を務め、教え子には正岡子規や秋山真之がいた。1884年には農商務省の外局として新設された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度の基盤を築いた。その後ペルーで銀鉱事業に乗り出すも、すでに廃坑であったため失敗。帰国後にはホームレス同然の状態に陥ったが、日本銀行の川田小一郎に声をかけられて入行し、再起を果たした。
日露戦争が勃発した1904年、日銀副総裁としてロンドンに渡り、戦費調達のための外債募集という極めて困難な任務に挑んだ。投資家たちの懸念を一つ一つ論理的に打ち返し、香港上海銀行のキャメロンやニューヨークのジェイコブ・シフらの支持を取り付けて公債発行を成功させた。「日本国は過去に一度も利払いを遅延したことがない」という一言で関税担保への外国人管理案を拒否した逸話は、交渉者としての胆力と誇りを示している。
1911年に日銀総裁に就任、その後複数回にわたって大蔵大臣を務め、原敬暗殺後には第20代内閣総理大臣にも就任した。しかし高橋が最も歴史的な貢献を果たしたのは、1931年から始まる「高橋財政」の時期である。金本位制の離脱、低金利政策、日銀による赤字国債の引き受けという積極財政を断行し、日本は世界に先駆けて大恐慌から脱出した。この政策は後に「日本のケインズ」と呼ばれる所以となった。
しかし軍部の際限ない軍事費増大要求に対して1935年に歳出削減を断行したことが、皇道派青年将校たちの強い反感を買った。1936年2月26日、二・二六事件において赤坂の自邸で暗殺された。享年81歳。高橋亡き後、後継者の大蔵大臣たちは軍部の膨張する予算要求を拒否する胆力も権威も持たず、軍事費は国家財政の6割を占めるまでに膨れ上がった。その結果、インフレの加速と軍国主義の歯止めなき暴走を招き、日本は太平洋戦争への破滅的な道を突き進むことになった。高橋是清の暗殺は、財政規律の番人を失うことが国家にとっていかに致命的な結果をもたらすかを歴史が証明した瞬間であった。
「ダルマさん」の愛称で親しまれた高橋是清の生涯は、幕末の混乱期に生まれ、奴隷同然の境遇から身を起こし、日本の近代化を財政面で支え、最後は自らが育てた国家機構の暴走に命を奪われるという、近代日本の光と闇を一身に体現するものであった。
専門家としての評価
高橋是清はケインズに先行して実践的な反デフレ政策を遂行した財政家であり、理論ではなく実務を通じてマクロ経済政策の基本原理を証明した点で独自の位置を占める。金本位制離脱と積極財政という処方箋は後のケインズ政策の先取りであったが、軍事費統制の失敗はケインズ理論が内包する「出口問題」の悲劇的な先例ともなった。実践者として石橋湛山とは日本経済の自立と開放性を志向する点で思想的に共鳴しており、両者は近代日本の経済的自由主義の水脈を形成している。