政治家 / medieval_european

フリードリヒ1世
ドイツ 1122-12-01 ~ 1190-06-17
ホーエンシュタウフェン朝初代神聖ローマ皇帝(1122-1190)、通称バルバロッサ(赤髭)。衰退した帝権の回復を生涯の事業とし、6度の伊遠征とローマ法復興で皇帝権威を再建したが、1162年のミラノ徹底破壊と1176年レニャーノの大敗、教皇との18年に及ぶ確執を経て1183年コンスタンツ和約に到達。第3回十字軍総司令として1190年サレフ川で溺死、キフホイザー伝説の源泉となった。
この人から学べること
バルバロッサが掲げた honor imperii(帝国の名誉)は、現代企業のブランド価値や創業理念に近く、これを長期的に守る姿勢が30年以上の支持を作った。一方、ミラノ徹底破壊のような過剰な懲罰は短期勝利と引き換えに長期の反感を残し、対抗勢力ロンバルディア都市同盟を生んだ。投資家への示唆は、競合排除のため過剰報復に走ると価格決定力を失う点である。1183年コンスタンツ和約で自治容認と忠誠確保を交換した柔軟性は、勝てない局面で意地を張らず長期関係を確保する取引設計の好例。第3回十字軍出陣前に後継者ハインリヒ6世を共同統治者に据えた継承準備も、自分の不在を前提とした体制設計として参考になる。
心に響く言葉
(私がひざまずくのは)ペテロのためであって、ハドリアヌスのためではない。
Pro Petro, non Adriano.
神より戴冠せられし皇帝、偉大にして平和をもたらす者。
Imperator a Deo coronatus, magnus et pacificus.
帝国の名誉。
Honor imperii.
我が王国に平和と正義を保つことを望む。
Pacem et iustitiam in regno meo conservare volo.
我はイタリアへ破壊しに来たのではなく、帝国の諸権利を回復させるために来たのである。
Veni in Italiam non ut destruerem, sed ut iura imperii repararem.
生涯と功績
フリードリヒ・バルバロッサは1122年12月、シュヴァーベン地方ハーゲナウで生まれた。父方ホーエンシュタウフェン家と母方ヴェルフ家という、当時のドイツで対立していた二大門閥の血を併せ持っていたことが、後の選帝侯にとって彼を「妥協可能な候補者」とした。1147年、父の死により25歳でシュヴァーベン大公位を継承、同年に伯父コンラート3世の第二回十字軍にも従軍してダマスクスへ赴いている。
1152年2月、伯父の死の直後、フランクフルトで諸侯により国王に推戴された。叙任権闘争以後80年にわたり帝権が空洞化していたドイツで、彼は失われた帝権の威信回復を生涯の課題とした。アーヘン戴冠の翌年から教皇エウゲニウス3世とコンスタンツ条約を結び、1155年6月18日、教皇ハドリアヌス4世から神聖ローマ皇帝として戴冠された。同時期にローマで反乱を率いたアーノルド・ダ・ブレシャを引き渡して処刑させた一件は、彼の宗教政治観を示すものとして後世に記憶された。
伊政策が彼の治世を決定づけた。1154年から1186年までに6度(史料により5度)の遠征を敢行し、北イタリアの自由都市群を帝国直属化しようとした。1158年のロンカリア帝国議会では旧ローマ法(コルプス・ユリス・キヴィリス)を法的根拠にレガリアの皇帝帰属を宣言、これが法学復興史上の画期となる。だが1162年に二度反乱を起こしたミラノを徹底破壊し住民を四つの村に分散させた措置は、後世に強い負の記憶を残した。教皇権との対立も激化し、1159年から1177年まで対立教皇3人を続けて擁立、アレクサンデル3世から破門を受けた。1176年レニャーノの戦いでロンバルディア都市同盟の歩兵に大敗、初めて自由都市の軍事力を認めざるを得なくなる。
1177年ヴェネツィアの和約でアレクサンデル3世と和解、教皇の首座にひれ伏す象徴的儀礼を行った。1183年コンスタンツの和約では同盟諸都市に自治を認める代わりに皇帝への忠誠義務を確保するという、現実主義的な落としどころに到達した。並行してドイツ国内では1180年、第5次伊遠征で援軍を拒否した従弟ハインリヒ獅子公を欠席裁判で領地剥奪・追放、ザクセン・バイエルンを諸侯に分割再配分する形で帝国内のパワーバランスを再構築している。
1187年のハッティンの戦いでエルサレム王国がサラディンに敗れた報を受け、1188年マインツの帝国議会で十字軍参加を誓い、1189年4月、12,000~15,000の遠征軍を率いてレーゲンスブルクを出発、陸路で小アジアまで進軍した。コンヤ(イコニウム)でセルジューク軍を破ったが、1190年6月10日、キリキアのサレフ川を渡河中に溺死した。死因は心臓発作・暑熱による失神・落馬など諸説あり確定しない。総司令官の突然の死で十字軍の大半は離散、アッカ攻囲には3分の1しか到達できなかった。
バルバロッサの遺産には功罪両論がある。功の側面では、ローマ法復興を通じた帝国行政の合理化、ドイツ国内の貨幣鋳造所を9倍に増やした経済政策、平和令(Landfriede)発布による私闘抑制が挙げられる。罪の側面ではミラノ住民への徹底的弾圧、教皇権との執拗な衝突によるドイツ国内統治の空洞化、第3回十字軍頓挫の遠因となった指揮継承計画の欠如がある。死後すぐにキフホイザー山やウンタースベルク山で眠り、帝国の危機に蘇るという伝説が生まれ、19世紀の統一ドイツ運動と20世紀ナチス政権(1941年バルバロッサ作戦)に政治神話として利用された経緯も、彼の遺産を複雑なものにしている。
専門家としての評価
中世政治史において、バルバロッサは「象徴と現実を同時に経営した中世皇帝」の代表格として位置づけられる。ローマ法復興と Landfriede による法的合理化、honor imperii というブランド経営、5度の伊遠征という長期投資、1183年和約に至る現実主義的撤退、いずれも近代的統治の萌芽を示す。ただしミラノ徹底破壊と教皇権への執拗な衝突という影もあり、20世紀には政治神話に転用された経緯から、評価は「英雄」と「過剰な強権者」の間で揺れ続けている。