政治家 / european_statesman

ニキータ・フルシチョフ

ニキータ・フルシチョフ

ロシア 1894-04-15 ~ 1971-09-11

ソビエト連邦共産党第一書記(1953-1964)、首相(1958-1964)。鉱山労働者出身という異色の出自で頂点に立ち、1956年の秘密報告でスターリン批判を行って非スターリン化を進めた。スプートニク打ち上げ・有人宇宙飛行などソ連の威信を高めた一方、ハンガリー動乱武力鎮圧、ベルリンの壁建設、キューバ危機で核戦争寸前まで世界を追い込み、1964年にブレジネフらに失脚させられた。

この人から学べること

フルシチョフはリスク管理と組織心理の現代的教材として実用性が高い。秘密報告は「内部告発による組織再生」の最大規模の事例で、創業者神話を抱える企業の世代交代と相対化の参考事例となる。キューバ危機は意思決定プロセスの古典で、エクスコムが13日間で示した遅延と検証は、不可逆な決断前に直接対決を避け間接シグナルで譲歩線を探る合理性を裏付ける。彼の失脚はワンマン経営者の盲点として読める。1957年に勝利した同じ機構が1964年に裏切ったのは、成功手法への過信と組織的反発の看過の典型例である。

心に響く言葉

もしあなたが私の下にハリネズミを投げ込むなら、私はあなたの下にヤマアラシを二、三匹投げ込むつもりだ。

If you start throwing hedgehogs under me, I shall throw a couple of porcupines under you.

政治家というのはどこでも同じだ。川がないところにすら橋を架けると約束する。

Политики везде одинаковы. Они обещают построить мост даже там, где нет реки.

Unverified

スターリンは自身の不寛容と粗暴さ、権力の濫用を見せつけた。スターリンはしばしば、現実に存在している敵に対してだけでなく、党やソ連政府に対して何ら犯罪行為を行っていない人々に対しても、弾圧と物理的抹殺の道を選んだ。

Сталин... показывал свою нетерпимость, грубость и злоупотребление властью... Сталин часто избирал путь репрессий и физического уничтожения не только в отношении действительных врагов, но и в отношении лиц, которые не совершали никаких преступлений против партии и Советского государства.

我々はあんたらを葬ってやる!(我々は資本主義を埋葬する)

Мы вас похороним!

ベルリンは西側の急所だ。西側に悲鳴を上げさせたい時、私はベルリンを締めつける。

Берлин — яички Запада. Когда я хочу, чтобы Запад закричал, я сжимаю Берлин.

生涯と功績

ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフは1894年4月15日、ロシア帝国クルスク県カリノフカで貧農の家に生まれた。15歳で鉛管工として働き始め、ウクライナ・ドンバス地方の鉱山で金属工として労働運動に関わった。1917年のロシア革命後、1918年に赤軍に動員され政治将校としてキャリアを始める。ラーザリ・カガノーヴィチの庇護下で1934年にはモスクワ州第一書記となり、地下鉄建設の功績でレーニン勲章を授与された。1937年からの大粛清ではモスクワ州の党幹部38名中35名の処刑を承認し、ウクライナ共産党第一書記としても多数の粛清を主導した。出自と経歴のこの暗部は、彼が後年に「非スターリン化」を掲げた時の倫理的負荷として常に問われ続けた。

独ソ戦では政治将校としてキエフ防衛戦・スターリングラード攻防戦に従軍した。1943年3月には戦闘機パイロットだった息子レオニードを戦闘で失い、戦後はウクライナ復興を統括した。1949年にモスクワに呼び戻され、1953年3月のスターリン死去後の権力闘争で、まず6月にラヴレンチー・ベリヤを逮捕・処刑し、続いて1955年にゲオルギー・マレンコフを失脚させ、9月に党第一書記に就任した。1957年6月にはモロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチらの「反党グループ」のクーデター未遂を中央委員会の支持で逆転制圧し、1958年にはブルガーニンに代わり首相も兼任して権力を固めた。

彼の最大の歴史的決断は1956年2月25日の第20回党大会で行なった4時間の秘密報告である。スターリンの恣意的処刑・拷問の使用・個人崇拝を党内向けに弾劾し、ソ連史を根底から書き換えた。「ピン一本落ちる音も聞こえる」沈黙の中で行われたこの演説は東欧へと漏れ、ポーランドの10月事件、1956年10月のハンガリー動乱を誘発する。後者をフルシチョフはソ連軍4,000人以上の戦死を伴う武力で鎮圧し、改革派首相ナジ・イムレを処刑させた。1957年10月にスプートニクを打ち上げて宇宙時代を開幕させ、1961年4月のガガーリンの有人宇宙飛行で米国に対する技術的優位を世界に示し、住宅政策では「フルシチョフカ」と呼ばれた量産プレハブ集合住宅で6千万人に住宅を提供した。1959年9月には現職ソ連指導者として初の訪米を実現、1960年9月の国連総会では植民地主義批判の議論中に靴で机を叩いたとされる事件で世界の耳目を集めた。

1961年8月13日、東ドイツからの頭脳流出を止めるためベルリンの壁建設を承認。1962年10月のキューバ危機ではキューバへの核ミサイル配備が米偵察機に発見され、世界は核戦争の瀬戸際に立った。ケネディとの13日間の駆け引きの末、米国がキューバ侵攻しないことと(密約として)トルコのジュピターミサイル撤去を引き換えに、ソ連はミサイルを撤去した。この譲歩はソ連軍部・カストロから猛烈な反発を呼び、2年後の失脚の遠因となる。1963年8月には部分的核実験禁止条約を米英ソ間で締結し、緊張緩和の道筋をつけた。中ソ対立では毛沢東との関係が決定的に悪化し、1959年に原爆設計提供を撤回。経済面では「とうもろこし狂」と揶揄された無理なトウモロコシ栽培の全土展開、トロフィム・ルイセンコの似非科学の重用で農業実験が連続して失敗、1963年の食糧危機ではカナダ・米国から穀物を緊急輸入する屈辱を経験した。1964年10月14日、レオニード・ブレジネフを中心とする党内クーデターで「自発的辞任」を承認させられ、年金生活に入った。1966年から秘密裏に口述で回顧録を作成し、息子セルゲイが西側へ持ち出して1970年に出版した。1971年9月11日、モスクワで心臓発作のため77歳で死去、国葬は拒否されノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。

専門家としての評価

フルシチョフは冷戦期ソ連史の中で「スターリン主義からの脱却と再強権化のどちらに位置づけるか」が今も論争の中心である。秘密報告と部分的核実験禁止条約、有人宇宙飛行などの達成は世界史に確実な前進をもたらし、ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』を許可した「雪解け」期は文化的解放としても評価される。一方ハンガリー武力介入とベルリンの壁、キューバ危機での無謀な配備は専制と無計画さの記録でもある。功罪は同時代の毛沢東・ケネディ・ジョンソンとの関係史を含めて評価せねば全体像が見えない指導者である。

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人物相関

影響を与えた人物

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よくある質問

ニキータ・フルシチョフとは?
ソビエト連邦共産党第一書記(1953-1964)、首相(1958-1964)。鉱山労働者出身という異色の出自で頂点に立ち、1956年の秘密報告でスターリン批判を行って非スターリン化を進めた。スプートニク打ち上げ・有人宇宙飛行などソ連の威信を高めた一方、ハンガリー動乱武力鎮圧、ベルリンの壁建設、キューバ危機で核戦争寸前まで世界を追い込み、1964年にブレジネフらに失脚させられた。
ニキータ・フルシチョフの有名な名言は?
ニキータ・フルシチョフの代表的な名言として、次の言葉があります:"もしあなたが私の下にハリネズミを投げ込むなら、私はあなたの下にヤマアラシを二、三匹投げ込むつもりだ。"
ニキータ・フルシチョフから何を学べるか?
フルシチョフはリスク管理と組織心理の現代的教材として実用性が高い。秘密報告は「内部告発による組織再生」の最大規模の事例で、創業者神話を抱える企業の世代交代と相対化の参考事例となる。キューバ危機は意思決定プロセスの古典で、エクスコムが13日間で示した遅延と検証は、不可逆な決断前に直接対決を避け間接シグナルで譲歩線を探る合理性を裏付ける。彼の失脚はワンマン経営者の盲点として読める。1957年に勝利した同じ機構が1964年に裏切ったのは、成功手法への過信と組織的反発の看過の典型例である。