哲学者 / 現代西洋

ピーター・シンガー
AU 1946-07-06
現代世界で最も影響力ある応用倫理学者の一人(1946- )。オーストラリア出身、現在はプリンストン大学教授。1975年の『動物の解放』で動物の権利運動の哲学的基礎を築き、世界の貧困と効果的利他主義(Effective Altruism)の主要論客でもある。功利主義の現代的展開で知られ、自身の収入の25%超を慈善寄付に充てている。
この人から学べること
シンガーから現代人が学ぶ第一は「効果的利他主義」の方法論である。慈善・寄付・社会貢献において、感情的な「気持ち」ではなく、限られた資源で最大の善をもたらす冷静な比較計算を重視する姿勢は、企業のCSR・ESG投資・公益団体の意思決定に直接応用可能だ。「同じ100万円でも、どこに寄付すれば何人の命が救えるか」を問う発想は、社会的インパクト評価の哲学的源流である。第二に、彼の「池で溺れる子供」思考実験は、グローバルなサプライチェーンや遠隔地の労働問題に対する倫理的責任を可視化する。物理的距離が見えなくしているだけで、道徳的距離はゼロかもしれない。第三に、彼の方法論的明晰さは、ビジネス倫理学習にとっての教科書である。一つの原理を異なる領域に首尾一貫して適用し、その帰結を恐れずに公にすることは、トレードオフを直視する経営判断の知的訓練となる。
心に響く言葉
人間の優越を証明するすべての議論をもってしても、この硬い事実を打ち砕くことはできない――苦しみにおいて、動物は我々と対等である。
All the arguments to prove man's superiority cannot shatter this hard fact: in suffering the animals are our equals.
もし悪いことが起こるのを防ぐことが我々の力で可能であり、それと同等の道徳的重要性をもつ何かを犠牲にせずに済むのなら、我々は道徳的にそれを為すべきである。
If it is in our power to prevent something bad from happening, without thereby sacrificing anything of comparable moral importance, we ought, morally, to do it.
人間の生命がただ人間のものだから神聖であるという観念は、中世的である。
The notion that human life is sacred just because it is human life is medieval.
苦しみと喜びの能力こそが、そもそも利益を持つことの前提条件である。
The capacity for suffering and enjoyment is a prerequisite for having interests at all.
生涯と功績
ピーター・シンガーは、オーストラリア・メルボルン出身の哲学者・倫理学者であり、応用倫理学を学術領域として確立した最も影響力ある現代思想家の一人である。1946年生まれ。両親は第二次大戦前にウィーンから移住したユダヤ人で、母は医師、父はコーヒーと茶の輸入業を営んだ。メルボルン大学で法学・歴史・哲学を学び、その後オックスフォード大学に進み、R・M・ヘアの指導下で倫理学博士号を取得した。モナシュ大学教授を経て、1999年からプリンストン大学アイラ・W・デキャンプ生命倫理学講座教授に就任した。
初期業績は1975年の『動物の解放』である。本書は人間の利益のために動物を犠牲にする態度を「種差別 (speciesism)」と呼んで批判し、苦しみを感じうる存在の利益を平等に配慮すべきだと論じた。古典的功利主義をベンサム流に拡張するこの議論は、欧米の動物の権利運動と菜食主義に圧倒的な影響を与えた。シンガー自身も30年以上のヴェジタリアンである。なお同じく功利主義者であるベンサムと同様、動物を苦しめずに殺すことは問題にならないという立場を取る。
第二の主要論点は世界の貧困への倫理的応答である。彼は1972年の論文『飢えと豊かさと道徳』および2009年の『あなたが救える命』で、富裕な国に住む人々は貧困削減のために自身の収入のかなりの割合を寄付する道徳的義務があると論じる。「池で溺れる子供を新品の靴を犠牲にして助ける」という有名な思考実験は、距離と顔の見えない他者への義務を可視化する。シンガー自身、収入の25%超をオックスファムやユニセフ等の団体に寄付し、彼の議論は現代の効果的利他主義(Effective Altruism)運動の哲学的源泉となっている。
第三の領域は生命倫理である。1979年の『実践の倫理』では、自発的安楽死を功利主義の立場から擁護し、新生児の安楽死をめぐる議論で激しい論争を巻き起こした。「胎児・新生児が将来の人格を持つ潜在性ゆえに成人と等しい価値を持つ」という議論を否定する彼の立場は、宗教的・障害者運動の立場から強く批判される一方、生命倫理学の理論的選択肢として現代倫理学の中心トピックとなった。彼の哲学全体は、利益の平等な配慮という功利主義原理を一貫して適用するという方法論的明晰さに貫かれている。『ニューヨーカー』誌が「最も影響力のある現代の哲学者」と評し、2005年タイム誌「世界の最も影響力ある100人」に選出されている。
2015年の『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』では、効果的利他主義(Effective Altruism)運動を体系化し、若い世代の倫理的キャリア選択の潮流を生んだ。職業選択においても「直接的に善を為す職」だけでなく「より多く稼いで多く与える職(earning to give)」も道徳的な選択肢として正当化される、というシンガー的な計算が、現代のチャリティ・コーチング・倫理的金融の議論の中心軸となっている。批判者の多さは彼の議論の鋭さの裏返しであり、応用倫理学という分野自体が彼の論争を糧として成熟してきたとも言える。日本でも『動物の解放』『実践の倫理』『あなたが救える命』『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』などが幅広く翻訳され、生命倫理・動物倫理・効果的利他主義の学習における基本文献となっている。
専門家としての評価
現代応用倫理学におけるシンガーの位置は、古典的功利主義をヘアらの選好功利主義として現代化し、それを動物・貧困・生命倫理という新たな主題群に首尾一貫して適用した中心人物である。論争の的となった議論も多いが、応用倫理学が学術領域として独立する過程で彼の存在は決定的だった。擁護するか反論するかの違いはあれど、現代英米倫理学の地形図において避けて通れない人物となっており、シンガーの主張に対する応答が現代倫理学の標準教材を形成している。