音楽家 / romantic
Sergei Rachmaninoff
ロシア 1873-04-01 ~ 1943-03-28
1873年ロシア生まれ、後にアメリカに移住したロマン派最後の巨匠。ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしても20世紀最高峰の一人に数えられる。交響曲第1番の惨憺たる初演で4年間の創作停止に陥ったが、催眠療法を経てピアノ協奏曲第2番を完成させ復活した。ロシア革命後に祖国を離れ、演奏活動に重心を移しながらも後期ロマン派の伝統を守り抜いた。
この人から学べること
ラフマニノフの生涯は、挫折からの復活と自己のスタイルを貫く強さについて教えてくれる。第一に、「専門家の助けを借りた挫折からの回復」がある。交響曲第1番の失敗後、催眠療法という当時としては先進的なアプローチで創作力を回復させた。メンタルヘルスの専門的支援を求めることの価値を先取りしている。第二に、「自分の強みを貫く勇気」がある。20世紀のモダニズムが主流となる中、ロマン派の語法を捨てなかった彼の姿勢は、流行に迎合せず独自の価値を追求する起業家精神に通じる。第三に、「演奏と作曲の二刀流」がある。世界最高峰のピアニストと作曲家を両立させたキャリアは、複数の専門性を統合することで唯一無二のポジションを築く戦略の先駆である。
心に響く言葉
音楽は一生を満たすのに十分だが、一生は音楽を満たすのに十分ではない。
Music is enough for a lifetime, but a lifetime is not enough for music.
私はよそよそしくなった世界をさまよう亡霊のような気持ちだ。古い書法を捨てることもできず、新しいものを身につけることもできない。
I feel like a ghost wandering in a world grown alien. I cannot cast out the old way of writing, and I cannot acquire the new.
私の作曲にとって重要だったのは、幼少期をロシアの心臓部で過ごしたことだ。
What was important to my composing was that I spent my childhood in the heart of Russia.
生涯と功績
セルゲイ・ラフマニノフは、20世紀において後期ロマン派の伝統を最も高い水準で体現した作曲家であり、同時代最高のピアニストの一人でもある。歌うような旋律、豊かな感情表現、濃密な対位法的織物、絢爛たるオーケストラの色彩が彼の音楽の特徴である。
ラフマニノフは1873年、ロシア貴族の家系に生まれた。祖父は作曲家ジョン・フィールドに師事したピアニストであった。4歳でピアノを始め、モスクワ音楽院でピアノと作曲を学び、1892年に卒業。在学中から作品を発表し、卒業作品のオペラ『アレコ』は好評を得た。
1897年、交響曲第1番の初演が壊滅的な失敗に終わり、ラフマニノフは4年間にわたるうつ状態に陥り、ほとんど作曲ができなくなった。ニコライ・ダーリ医師による催眠療法が転機となり、1901年にピアノ協奏曲第2番を完成。この作品は大きな成功を収め、彼の代表作となった。
その後、ボリショイ劇場の指揮者(1904-1906年)を務め、ドレスデンに移住。1909年にはアメリカでの初の演奏旅行を行った。ロシア革命後の1918年、家族とともにロシアを永久に離れ、ニューヨークに定住した。以後は主に演奏活動に専念し、ヨーロッパとアメリカを広く演奏旅行した。1932年からはスイスの別荘で夏を過ごした。
亡命後の作曲作品はわずか6曲に留まったが、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第2番、『パガニーニの主題による狂詩曲』、交響的舞曲など、残された作品はいずれも後期ロマン派の最高傑作に数えられる。
1942年、健康の衰えからカリフォルニア州ビバリーヒルズに転居。1943年3月、悪性黒色腫により69歳で死去した。
専門家としての評価
ラフマニノフは20世紀において後期ロマン派の伝統を最も純粋に継承した作曲家である。チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフの影響を受けつつ、息の長い旋律線と濃厚な和声感覚で独自の音楽語法を確立した。ピアニストとしての卓越した技巧は作品に反映され、ピアノ協奏曲第2番・第3番や『パガニーニの主題による狂詩曲』はピアノ文献の最高峰に位置する。モダニズム全盛期にロマン派の美学を守り抜いたことで、当時は時代遅れと見なされたが、現在では時代を超えた普遍性が再評価されている。