哲学者 / 近世西洋

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
ドイツ 1762-05-19 ~ 1814-01-27
ドイツ観念論の出発点に立つ哲学者(1762-1814)。カント哲学を継承しつつ「物自体」を否定し、自我の自己定立から世界全体を導出する『知識学』を構想した。ナポレオン占領下のベルリンで行った『ドイツ国民に告ぐ』連続講演はドイツ・ナショナリズムの源流ともなり、同時に現代承認論を先取りした思想家でもある。
この人から学べること
フィヒテから現代のビジネスパーソンが学べる第一の点は、「思想は人格と切り離せない」というメタ認知である。同じ事実を見ても、リスクを取れる人と取れない人で導く結論はまったく異なる。重要な意思決定で詰まった時、「どんな選択肢があるか」だけでなく「自分はどんな人間でありたいか」を問うのがフィヒテ流の解法だ。第二に、彼の自我の自己定立論は、現代の自己啓発・コーチングの哲学的源流でもある。「自分の人生は自分で書き始めるしかない」というアサーティブな構えは、過去の傷や環境のせいに留まり続ける受動性から人を引き離す。第三に、相互承認論。彼は『自然法の基礎』で「自由な主体は他の自由な主体の存在を必要とする」と論じた。これは現代でいえば心理的安全性とインクルージョンの哲学的基礎であり、自分の自由のためにこそ他者の自由を尊重するという発想は、対立的な組織を協働的なチームに変える根本原理である。
心に響く言葉
人がどのような哲学を選ぶかは、その人がどのような人間であるかにかかっている。
Was für eine Philosophie man wähle, hängt sonach davon ab, was man für ein Mensch ist.
自我は自己を定立する。そして自我は、自己自身による単なるこの定立によって存在する。
Das Ich setzt sich selbst, und es ist, vermöge dieses bloßen Setzens durch sich selbst.
行為せよ、行為せよ。それこそが、我々がここに存在する目的である。
Handeln! Handeln! das ist es, wozu wir da sind.
生きて作用する道徳的秩序、それ自身が神である。
Die lebendige und wirksam handelnde moralische Ordnung ist selbst Gott.
生涯と功績
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、カントとヘーゲルを繋ぐドイツ観念論の出発点に位置する哲学者である。1762年、ザクセン地方の寒村ランメナウに織紐職人の息子として生まれ、家は極めて貧しかった。だが幼少期から驚異的な記憶力を示し、教会の説教を一字一句復唱できる神童ぶりが領主ミリティツ男爵の目に止まり、男爵の援助でプフォルタ寄宿学校、続いてイェナ大学神学部へと進んだ。男爵が1774年に亡くなると学資が途絶え、彼は学位を取らずに大学を去ることになる。
1788年、26歳で生活に窮した彼はチューリッヒで家庭教師の口を得る。そこで運命の転機が訪れた。一人の学生から「カント哲学を教えてほしい」と頼まれたのである。生活のために始めた学習だったが、カントの三批判書は彼の思考を一変させた。1791年、29歳の彼はケーニヒスベルクのカントを訪ねるが、初対面は冷淡なものに終わる。失意のなか宿に閉じこもった彼は、わずか五週間で『あらゆる啓示批判の試み』を書き上げ、カントに送付した。匿名で出版されたこの書はカント自身の新著と誤解されるほどの完成度であり、カントが「これは私の作ではない」と公表するや、フィヒテは一夜にして著名な哲学者となった。
1794年、彼は32歳でイェナ大学員外教授に就任し、主著『全知識学の基礎』を世に問う。彼の問題意識は「カントが残した「物自体」の謎をどう処理するか」であった。意識の外に独立した「物自体」があるとすれば、それは認識不可能であり、結果として懐疑論に道を開く。彼はこの矛盾を断ち切るため、出発点を「自我の自己定立」(Ich setzt sich) に置いた。世界は自我の活動から発し、自我の制限として現れる「非我」と弁証法的に統合され、自己意識として完成する。テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの三段階論法は、しばしばヘーゲルの発明と誤解されるが、その原型はフィヒテにある。
1799年、彼は「無神論論争」で大学を追われる。「道徳的世界秩序こそが神である」と書いた論考が無神論として告発されたのだ。プロイセン以外のドイツ諸国が彼を排斥するなか、ベルリンに移った彼は、シュレーゲル兄弟・シュライアマハー・シェリングらロマン派の知識人と交わった。1807年から翌年にかけ、ナポレオン軍占領下のベルリンで連続講演『ドイツ国民に告ぐ』を行い、ドイツ語こそが根源的思考を表現する言語であると説き、敗戦の屈辱に沈む聴衆に文化的再生の道を示した。1810年、新設のベルリン大学初代哲学教授・初代総長となるが、剛直な性格から1812年に辞任。1814年、看護で疫病に倒れた妻を世話するなかで自身も腸チフスに感染し、51歳で世を去った。
フィヒテの思想は、19世紀ドイツ・ナショナリズムや20世紀ナチスに利用された側面と、自由・相互承認・コスモポリタニズムを軸とする啓蒙的側面の両義性をもつ。1793年の未公刊書簡には反ユダヤ的記述が確認されているが、彼自身は1795年以降この見解を撤回し、ユダヤ人の宗教的自由を擁護する立場へと移行している。ベルリン大学長を辞任した最後の理由も、ユダヤ人学生への嫌がらせを学内で処分しなかった同僚への抗議だった。一面的な「ナチスの先駆者」評価は近年大きく見直されつつあり、彼の『自然法の基礎』に展開された相互主体間の承認論は、ホネットなど現代の承認論の出発点としても再発見されている。
専門家としての評価
ドイツ観念論史におけるフィヒテは、カント批判哲学を「物自体」の遺産から切り離して徹底的に主観性原理に還元した起点として位置づけられる。後のシェリング、ヘーゲルが彼の自我の自己定立論を出発点として独自体系を展開した点で、ドイツ観念論はフィヒテなしに成立しない。同時に20世紀以降、ジャン=ポール・サルトルの実存主義的自我論、メルロ=ポンティの相互主体性論、現代の承認論(ホネット)などへの影響も再評価されている。ナチスへの利用と本人の啓蒙主義的素地のあいだの緊張は今なお論争の対象である。