投資家 / トレーダー

本間宗久
日本 1724-01-01 ~ 1803-01-01
18世紀の江戸時代の米商人・テクニカル分析の祖
ローソク足チャートの原型を考案し酒田五法を確立した
チャートの形でなくその背後の売り手買い手の心理を読むのが本質
1724年、出羽国酒田に生まれた江戸時代の米商人にして、ローソク足チャートの原型を考案したとされるテクニカル分析の祖。大坂・堂島の米先物市場で莫大な富を築き、1755年刊行の『三猿金泉秘録』では市場心理の重要性を世界に先駆けて論じた。酒田五法の名で知られる売買手法は、現代のグローバル金融市場でも広く参照されている。
名言
衆人皆売りの気に迷う時は踏み上がるの理なれば、買いの種と知るべし
相場は知ったら仕舞い
天井三日、底百日
万人が万人ながら強気なる時、あきないの道によれば、かならず峠にして、それより下がるべし
関連書籍
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本間宗久の思想は、現代の個人投資家がテクニカル分析とどう付き合うべきかを考えるうえで重要な示唆を与える。多くの初心者がローソク足チャートを「パターン暗記」の対象として学ぶが、宗久が本来重視していたのは市場心理の読み解きである。チャートの形そのものではなく、その形が示す売り手と買い手の心理状態を理解することが本質であった。NISAで投資を始めた層がチャート分析に興味を持った際、この原点に立ち返ることは有益である。また「衆人悲観の時に買う」という逆張りの教訓は、暴落時のパニック売りを防ぐ心理的な防壁となりうる。iDeCoのように長期運用を前提とする制度では、短期的な価格変動に動揺せず積立を継続する忍耐力が求められるが、宗久の「底百日」の格言はまさにその忍耐を支える知恵である。さらに、江戸時代の日本が世界に先駆けて先物市場と分析手法を発展させた歴史は、日本の投資家としての誇りと自信を育む文化的な基盤ともなる。
ジャンルの視点
投資家の類型において本間宗久は、テクニカル分析の始祖として独自の位置を占める。西洋のチャールズ・ダウがダウ理論を提唱する100年以上前に、日本の米商人が価格変動の視覚化と市場心理の体系的分析を実践していた事実は特筆に値する。バリュー投資やグロース投資といったファンダメンタル派とは根本的に異なり、価格そのものに内在する情報から売買判断を導く手法の源流に位置する。酒田五法は現代のプライスアクション分析に直接つながる血脈であり、宗久は西洋のリバモアやワイコフに先行するトレーディング思想家として再評価されるべき存在である。
プロフィール
本間宗久は、18世紀の日本が世界の金融史に刻んだ最も重要な貢献の一つであるローソク足チャートの発明者として広く知られる人物である。彼が活躍した堂島米会所は、世界初の組織的な先物取引市場とも評され、その取引環境の中で生まれた分析手法が、21世紀の今もなお世界中のトレーダーに使われているという事実は驚くべきことである。
1724年(享保9年)、出羽国庄内藩の酒田に生まれた。酒田人名録では「本間古作」と記され、通称は久作であった。酒田は最上川の水運と日本海航路の結節点に位置し、庄内平野の豊かな米の集散地として栄えていた。宗久は米の商いで頭角を現し、やがて大坂の堂島米会所へと活動の場を広げた。堂島では現物取引だけでなく、米の受渡し予約証文(帳合米)による先物取引が盛んに行われており、宗久はこの市場で類まれな成功を収めたとされる。
彼の功績で最も重要なのは、価格の動きを視覚的に記録・分析する手法を体系化したことである。始値・高値・安値・終値の四つの価格情報を一つの「足」にまとめて表示するローソク足チャートの原型は、宗久の時代に遡るとされる。ただし、現在広く使われているローソク足の形態が宗久本人の発明かどうかについては諸説あり、後世の改良を経て現在の形になったと考えるのが妥当であろう。いずれにせよ、価格変動を視覚化して市場の勢いを判断するという発想は画期的であった。
1755年に著した『三猿金泉秘録』は、世界初の相場心理学の書物と位置づけられることがある。タイトルの「三猿」は「見ざる・言わざる・聞かざる」に由来し、市場の噂や群衆の声に惑わされず冷静に判断せよという教訓を象徴している。この書で宗久は、市場の心理的側面が価格形成に決定的な影響を及ぼすことを論じ、「衆人悲観の時に買い、衆人楽観の時に売る」という逆張りの原則を示した。行動経済学やコントラリアン投資の考え方が20世紀になって学問的に体系化されるはるか以前に、宗久は実践的な知恵としてこれを記していたことになる。
宗久はまた、相場の陰(下落)と陽(上昇)の交替を見極め、各局面の内部にも反対の動きが内在していることを指摘した。上昇相場の中にも調整局面があり、下落相場の中にも反発の機会があるという観察は、現代のエリオット波動理論やサイクル分析に通じる発想である。東洋的な陰陽思想を相場分析に応用した独創的な視点であったといえる。さらに市場の出来高と天候を売買判断に組み込んでいたとも伝えられ、ファンダメンタルズとテクニカルの両面を考慮する総合的なアプローチを志向していたと推察される。宗久は酒田から大坂まで約600キロメートルの間に約6キロごとに通信員を配置し、市場価格をいち早く入手する情報網を築いていたとも伝えられる。情報の速度が利益に直結することを理解していた先駆者でもあった。
宗久の具体的な資産規模については今日の貨幣価値で約100億ドルに相当したとする推計もあるが、信頼できる一次資料による裏付けは困難である。甥の本間光丘が米沢藩主・上杉鷹山を補佐した酒田の豪商であったことから、本間家全体の経済力の大きさは窺い知れる。酒田五法として知られる五つの売買パターンの名は宗久に由来するとされ、トレーダーの間で今なお基本的な教材として参照されている。
1803年(享和3年)に79歳で没したとされる。江戸時代の一商人が開発した分析手法が、インターネットを通じて世界の金融市場の共通言語となっている事実は、金融イノベーションが時代や国境を超えて普遍的な価値を持ちうることの証左である。