政治家 / independence_leader

スカルノ

スカルノ

ID 1901-06-06 ~ 1970-06-21

インドネシア共和国初代大統領にして「建国の父」(1901-1970)。スラバヤ生まれ、バンドン工科大学卒の建築家。インドネシア国民党を結党しオランダ植民地政府の獄中・流刑を経て、1945年8月17日にハッタと独立を宣言した。Pancasila(五原則)を国是に据え非同盟運動の旗手となったが、9月30日事件で失脚、軟禁の中で1970年に死去した。

この人から学べること

スカルノの遺産は、現代の経営者に「カリスマの賞味期限」と「複数勢力のバランサーとしてのリーダー」の限界を教える。彼が独立期に発揮した雄弁と多民族統合のビジョンは、創業者がゼロから組織を立ち上げるときに不可欠な「物語の力」の最高到達点である。Pancasilaは多様性を抱える組織の理念設計の優れた範例として今も通用する。だが彼が1957年以降選択した「指導される民主主義」「ナサコム(国軍・宗教・共産党の三勢力バランス)」は、長期的にはバランサー自身が判断停止に陥る病を露呈し、9月30日事件直後に虐殺を止められず政治的後ろ盾を一夜にして失った。投資・経営の文脈では「ビジョナリーの初期成功」と「平時の制度化への移行失敗」が裏表であり、創業者が制度設計者に変身できないと組織が崩れる典型事例として記憶すべきである。

心に響く言葉

生涯と功績

スカルノは1901年6月6日、オランダ領東インド東部の港湾都市スラバヤに生まれた。本名はクスノ・ソスロディハルジョ。父ラデン・スケミは小学校教師で下級ジャワ貴族、母イダ・アユ・ニョマン・ライはバリ・ヒンドゥー教徒貴族の出で、ジャワとバリ、イスラムとヒンドゥーが交わる文化的下地が彼の汎民族主義の素地となった。ヨーロッパ人子弟向け学校を経てスラバヤの高等市民学校(HBS)、1921年からはオランダが新設したバンドン高等工業学校(現バンドン工科大学)に進学し、1926年に建築技師の資格を得た。

大学卒業の翌1927年7月4日、インドネシア国民党(PNI)を結党し、各地で雄弁な大衆演説を重ねて「民族の指導者」となった。1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕され、1933年からの再逮捕後はフローレス島エンデ、続いてスマトラ島ベンクルに流刑、計約10年に及ぶ拘留・流刑生活を耐えた。1942年に進駐した日本軍によって解放され、第16軍司令官今村均の要請で日本軍政下での民族統合に協力した。

1945年6月1日、独立準備調査会(BPUPK)で「Pancasila(パンチャシラ=五原則: 民族主義、国際主義、民主主義、社会的公正、唯一神への信仰)」演説を行い、多宗教・多民族国家インドネシアの統合理念を提示した。日本敗戦直後の1945年8月17日、副大統領ハッタと共に「Proklamasi」と題する独立宣言を発し、初代大統領に就任。続く対オランダ独立戦争を1949年のオランダ承認まで指導し、「建国宣言の父(Bapak Proklamator)」の称号を得た。

1955年バンドンで第1回アジア・アフリカ会議を主宰し、周恩来・ネルー・ナセル・ガマール・ナセルと共に「平和十原則」を採択し非同盟運動(NAM)を始動した。1960年の第15回国連総会演説『To Build the World Anew』(2023年ユネスコ「世界の記憶」登録)で第三世界の代弁者として国際的威信は絶頂に達した。だが1959年に議会制を廃して「指導される民主主義」を宣言、1963年「終身大統領」就任、マレーシア建国に反発した「対決政策(コンフロンタシ)」の発令、1965年の国連脱退と中華人民共和国・北朝鮮を引き込んだ独自国連構想(CONEFO)の発表など、独裁化と国際的孤立を深めた。経済では外資企業の接収・華人差別・「ベルディカリ(自立)」路線の急進展開で、年率数百%のハイパーインフレと食糧危機を招いた。

1965年9月30日深夜、共産党(PKI)関係の中佐らによる国軍首脳暗殺(9月30日事件)が発生、スハルト少将に鎮圧された。直後の半年で右派軍人と民兵組織による反共虐殺で50万~100万人以上のPKI関係者・華人らが殺害された。スカルノ自身が虐殺を主導したわけではないが、軍と共産党を両建てしてきたナサコム体制が一夜で破綻し政治的後ろ盾を失った。1966年3月11日命令書(スーペルセマル)でスハルトに権限を委譲、1967年に大統領代行職を奪われた。3人の日本人妻を含む多くの家族が国外亡命に追われ、本人は事実上の軟禁下に置かれて1970年6月21日、ジャカルタで死去。69歳没、ブリタールの墓に眠る。今もなお国民から「ブン・カルノ(カルノ兄さん)」と慕われ、最高額面10万ルピア紙幣に肖像が用いられている。

専門家としての評価

スカルノは脱植民地の独立指導者として、ガンディーやネルーと同列に位置する世代の代表である。Pancasilaという理念設計と「Proklamasi」の発令、非同盟運動の共同創設という功績は明確だが、「指導される民主主義」への移行と1965年9月30日事件後の100万人規模虐殺の政治的前提を作ってしまった責任は今も論争の対象である。今日もインドネシア国民は「ブン・カルノ」と慕い、最高額面紙幣に肖像を用いている。

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よくある質問

スカルノとは?
インドネシア共和国初代大統領にして「建国の父」(1901-1970)。スラバヤ生まれ、バンドン工科大学卒の建築家。インドネシア国民党を結党しオランダ植民地政府の獄中・流刑を経て、1945年8月17日にハッタと独立を宣言した。Pancasila(五原則)を国是に据え非同盟運動の旗手となったが、9月30日事件で失脚、軟禁の中で1970年に死去した。
スカルノの有名な名言は?
スカルノの代表的な名言として、次の言葉があります:"唯一神への信仰、民族主義、人道主義(国際主義)、民主主義、社会的公正。"
スカルノから何を学べるか?
スカルノの遺産は、現代の経営者に「カリスマの賞味期限」と「複数勢力のバランサーとしてのリーダー」の限界を教える。彼が独立期に発揮した雄弁と多民族統合のビジョンは、創業者がゼロから組織を立ち上げるときに不可欠な「物語の力」の最高到達点である。Pancasilaは多様性を抱える組織の理念設計の優れた範例として今も通用する。だが彼が1957年以降選択した「指導される民主主義」「ナサコム(国軍・宗教・共産党の三勢力バランス)」は、長期的にはバランサー自身が判断停止に陥る病を露呈し、9月30日事件直後に虐殺を止められず政治的後ろ盾を一夜にして失った。投資・経営の文脈では「ビジョナリーの初期成功」と「平時の制度化への移行失敗」が裏表であり、創業者が制度設計者に変身できないと組織が崩れる典型事例として記憶すべきである。