起業家 / 消費財

Milton S. Hershey
アメリカ合衆国 1857-09-13 ~ 1945-10-13
19-20世紀アメリカの菓子製造起業家・慈善家
ミルクチョコレートの大量生産で高級品を庶民の手に届けた
高級品を大衆化する事業機会の見つけ方は今も有効な戦略
1857年米国ペンシルベニア州生まれの菓子製造業者。キャラメル事業で最初の成功を収めた後、当時は高級品であったミルクチョコレートの大量生産に挑み、1900年に発売したハーシーバーで一般大衆に手の届くチョコレートを実現した。事業の利益で従業員のための理想的な企業城下町ハーシーを建設し、孤児のための寄宿学校を設立するなど、事業と慈善を一体化させた起業家である。
名言
品質を与えよ。それが最良の広告である。
Give them quality. That is the best kind of advertising.
善意と人格を土台にした事業こそが最終的に成功する、という言葉をよく耳にするが、私もそれを信じている。
I often hear people say that the business which is built on a basis of good will and good character to all, is the business which will ultimately succeed.
人は他者を幸せにした分だけ自らも幸せになれる。
One is only happy in proportion as he makes others feel happy.
関連書籍
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ハーシーの事業構築は、現代の起業家にいくつかの重要な視点を提供する。第一に、高級品を大衆化するという事業機会の見つけ方がある。スイスのミルクチョコレートが富裕層限定であった市場構造を、大量生産によって破壊した。この構図は、テスラが高級電気自動車を大衆車に展開する戦略や、ユニクロがカシミヤを手頃な価格で提供する手法と本質的に同じである。第二に、三度の事業失敗から立ち直った粘り強さは、起業における「失敗は学習」という原則の実証である。キャラメル事業の成功は、先行する失敗で蓄積した製造技術と市場理解がなければ実現しなかった。第三に、企業城下町の建設という発想は、現代のキャンパス型企業(GoogleやAppleの本社)の先駆であり、従業員の生活環境と生産性の関係を経営課題として捉えた点で先進的である。そして第四に、企業の株式を教育信託に移管した仕組みは、現代のソーシャルエンタープライズが模索する「利益の社会還元を制度化する」方法の原型といえる。
ジャンルの視点
起業家の類型としてハーシーは、「製品大衆化型の企業市民起業家」に位置づけられる。技術的革新よりも製造プロセスの最適化と規模の経済を武器にした点で、フォードの自動車大量生産に通じる発想を持つ。しかしフォードとの決定的な違いは、事業の利益を地域社会と教育に制度的に還元する仕組みを経営の中核に組み込んだことにある。カーネギーの慈善が引退後のものであったのに対し、ハーシーは事業運営と並行して社会還元を実践した。
プロフィール
ミルトン・ハーシーは、二度の事業失敗を経て菓子製造で成功を収め、その利益で従業員と地域社会のための理想郷を建設するという、事業と慈善が分かちがたく結びついた起業家人生を歩んだ人物である。
1857年、ペンシルベニア州のドイツ系移民コミュニティに生まれた。父は夢想家で事業を次々と変えては失敗を重ね、家庭は経済的に不安定であった。母方の堅実な価値観がハーシーの性格形成に大きな影響を与えたとされる。正規の教育は4年生までしか受けておらず、その後は印刷所の見習いを経て、14歳で地元の菓子店に徒弟入りした。ここで菓子製造の技術を習得したことが、後の事業の出発点となる。
最初の起業はフィラデルフィアでのキャンディ店であったが、6年で失敗に終わった。続いてデンバーとニューヨークでも事業を試みたが、いずれも成功しなかった。三度の失敗を経て、1886年にペンシルベニア州ランカスターでキャラメル製造を再開した。この事業で、新鮮な牛乳をキャラメルに使用するという手法が差別化要因となり、大口の輸出注文を獲得して軌道に乗った。ランカスター・キャラメル会社は急成長し、ハーシーに初めての商業的成功をもたらした。
転機は1893年のシカゴ万博であった。ドイツのチョコレート製造機械のデモンストレーションを目にしたハーシーは、ミルクチョコレートの大量生産という新たな構想に取り憑かれた。当時、ミルクチョコレートはスイスの高級品であり、一般的なアメリカ人には手の届かない贅沢品であった。ハーシーは、キャラメル事業で確立した牛乳の扱いに関するノウハウを活かし、独自のミルクチョコレート製法を数年がかりで開発した。1900年にハーシーバーを発売し、大量生産による価格引き下げで大衆市場を開拓した。確信を持ってキャラメル事業を100万ドルで売却し、チョコレート事業に経営資源を集中させた判断は、事業転換の好例として知られる。
ハーシーの独自性は、工場の建設にとどまらず、従業員のための街全体を設計した点にある。ペンシルベニア州の農村地帯に、工場を中心として住宅、学校、教会、公園、遊園地、銀行を備えた計画都市を建設した。この街は後に「ハーシー」と名づけられた。街路灯がチョコレートのキスの形をしているという逸話は、ハーシーの事業と生活空間の一体化を象徴している。
さらに注目すべきは、1909年にハーシーが妻キャサリンと共に設立した寄宿学校である。子供に恵まれなかった二人は、地域の孤児を対象とした教育施設を設け、ハーシーの資産の大部分をこの学校に寄付した。1918年には自身のチョコレート会社の株式を信託としてこの学校に移管しており、事実上、会社の利益が永続的に教育事業に還元される仕組みを作った。この学校は2016年時点で約2000人の生徒を受け入れている。
第二次世界大戦中には、軍のために溶けにくい特殊チョコレートバー「レーションD」を開発し、海外に展開する米軍兵士に配給された。この協力は企業の社会的責任の実践として評価されている。1945年に88歳で没した。
三度の失敗から立ち上がり、大衆消費財のブランドを築き、その収益で地域社会の基盤を作るという連環は、事業の成功がそれ自体で完結するのではなく、社会への還元を通じて初めて意味を持つというハーシーの信念を体現している。ハーシー社は現在も世界最大級の菓子メーカーの一つであり続けている。