芸術家 / 印象派

ピエール=オーギュスト・ルノワール
FR 1841-02-25 ~ 1919-12-03
1841年フランス・リモージュに生まれ、「幸福の画家」と称される印象派の巨匠。代表作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は木漏れ日のなかで踊る人々を鮮やかな色彩と光の斑点で描き、印象派の最も楽天的な精神を体現する。裸婦画と人物画において豊麗な色彩と温かみのある肉感表現を追求し、晩年はリウマチに苦しみながらも筆を手に縛りつけて制作を続け、色彩の歓びを画面に注ぎ込んだ。
この人から学べること
ルノワールの芸術から現代のクリエイターやビジネスパーソンが学べる教訓は温かい。第一に「喜びの価値」である。苦悩や批判精神が芸術の主題として重視されがちな風潮に対し、美と幸福そのものを表現する正当性を主張した姿勢は、ポジティブな顧客体験の設計やウェルビーイングを重視するプロダクトデザインの発想に通じる。第二に「身体的制約を超える執念」がある。リウマチで筆を握れなくなっても制作を続けた姿勢は、困難な状況下でも創造活動を止めないレジリエンスの極致である。第三に「危機を通じた統合」がある。印象派的手法への不安から古典に回帰し、最終的に両者を統合した晩年の画風は、ビジネスにおいても一時的な後退が新たな統合と発展をもたらしうることを示す好例である。
心に響く言葉
苦痛は過ぎ去るが、美は残る。
La douleur passe, la beauté reste.
なぜ芸術は美しくあってはいけないのか?世の中には不快なことが十分にある。
Pourquoi l'art ne serait-il pas joli? Il y a assez de choses embêtantes dans le monde.
主題を好きなように配置してから、子供のように描き始める。
J'arrange mon sujet comme je veux, puis je me mets à le peindre comme un enfant.
生涯と功績
ピエール=オーギュスト・ルノワールが美術史において独自の地位を占める理由は、印象派の光の探究を人間の肉体と日常の歓びの描写に結びつけ、生きることの快楽を色彩に翻訳する能力において比類なき達成を示した点にある。モネが風景と大気の変化に集中し、セザンヌが構造の探究に向かったのに対し、ルノワールは一貫して人間の姿、とりわけ女性の身体と微笑みを主題とし、絵画を幸福の器とすることに生涯を捧げた。
1841年2月25日、フランス中部リモージュの仕立て屋の家に七人きょうだいの六番目の子として生まれた。家族はまもなくパリに移り住んだ。少年期に陶磁器の絵付け職人として働いた経験が、装飾的な色彩感覚と筆の扱いの基礎を培った。しかし機械による印刷技術の普及が手描きの絵付けを脅かし始めたため、ルノワールは本格的な画家の道を志すことになった。1862年にパリのエコール・デ・ボザールに入学するとともに、シャルル・グレールのアトリエで学び、モネ、シスレー、バジールらと出会った。彼らとフォンテーヌブローの森やセーヌ河畔に出かけて戸外制作を行い、この共同体験が印象派運動への参加の端緒となった。
1874年の第一回印象派展に参加し、以後の印象派展にもたびたび出品した。1876年の『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は、モンマルトルの屋外ダンスホールで踊り語らう人々を、木漏れ日の斑点が全体を包む構図で描いた印象派の代表作である。人物の肌に落ちる光と影の複雑な戯れ、自然な動きの中に捉えられた人々の表情、画面全体を満たす社交の楽しさは、印象派の美学が最も幸福な形で結実した作品とされる。同時期の『ぶらんこ』も木漏れ日の効果を探究した名作であり、光の描写における印象派的技法の到達点を示す。
1880年代前半にルノワールは「酸っぱい時期(マニエール・エーグル)」と自ら呼ぶ転換期を迎えた。印象派の筆触分割が形態の確かさを失わせることへの不安から、1881年のイタリア旅行でラファエロの古典的なデッサンとポンペイの壁画に感銘を受け、輪郭線を強調した固い描写に一時転じた。この時期の代表作『大水浴図』は、印象派の色彩と古典的な線描の統合を試みた意欲作である。この実験は最終的に実り多きものとなり、晩年の画風の基盤を形成した。
晩年のルノワールは重度のリウマチ性関節炎に苦しみ、手指が変形して筆を握ることが困難になった。しかし筆を包帯で手に縛りつけて制作を続け、南仏カーニュ=シュル=メールの「レ・コレット」と名付けたアトリエで描かれた裸婦画の連作は、温かみのある赤みを帯びた肌の色彩と豊満な肉体表現により、色彩の歓びの極致を示している。マティスが「色彩で女性の匂いを描いた」と評したのはこの晩年の作品群に対してである。彫刻にも晩年に着手し、助手のリシャール・ギノの手を借りて制作された裸婦の彫刻群は、ルノワールの造形感覚の立体的な展開として評価されている。
1919年12月3日、カーニュ=シュル=メールにて78歳で没した。死の前日まで花の絵を描いていたとされる。ルーヴル美術館を車椅子で訪れた際に自作がヴェロネーゼの隣に掛けられているのを見て感慨に浸ったのは、晩年の有名なエピソードである。また長男ピエールは俳優に、次男ジャンは映画監督として『大いなる幻影』『ゲームの規則』などフランス映画史に輝く傑作を残し、芸術一家としても名高い。ルノワールの遺産は、絵画を苦悩や思索の表現とする近代的な傾向に対し、視覚的な快楽と生命の祝福こそが芸術の正当な主題であり得ることを示した点にある。
専門家としての評価
ルノワールは印象派の光の探究を人物画と裸婦画に結びつけ、色彩による肉感と幸福の表現において独自の頂点を築いた画家である。モネの風景画やセザンヌの構造的探究とは異なり、人間の身体と微笑みに一貫して焦点を当てた。晩年の温かみのある赤みを帯びた裸婦画の連作はマティスに直接的影響を与え、「色彩で幸福を描く」という方法論は印象派の最も楽天的な精神の結実として美術史に位置づけられる。